Book Review
恋愛の在りようこそが
サスペンス。
  永井するみ著「唇のあとに続くすべてのこと」
(光文社)書評

初出/北海道新聞
2003年3/9刊
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 この小説を読んでまず思ったのは、こんなことである。
--愛情のもとでは、だれもが疑わしくなる。
 ミステリーもサスペンスも「起こった出来事」ではなく、もとは起こした人物の中に限りのない謎がある。それが愛情という複雑な織りにからめとられたとき、より固くほつれた糸玉のごとき様相を成してしまう。
 平穏な日常が崩れるときの不穏な足音。
本書で私が楽しんだのは、きめこまかでひそやかな心の足音だ。いいかえれば、「謎解き」の醍醐味そのものより、永井するみ描くところの主人公の心理風景にいつしか引き込まれていた。人物、環境設定が何よりうまくなされているゆえである。主人公の奈津は、商社マンの夫とかわいい娘と共に何不自由ない生活を送り、料理家としての成功もおさめている。充実した日々を送る彼女の前に訪れた、かつての愛人の死と同僚との再会。
そこにあるのは愛情なのか猜疑心なのか。著者は、主人公を小綺麗に完成された女として描こうとはしない。レンズのように澄んだ目で、情欲や残酷さ、女としての欲そのものを描きだす。他の登場人物も同様に。だれもが愛に欲深く、それゆえ物悲しいほどだ。
 夫とは別の男性との関係に混迷する主人公の、心に浮き沈みする陰影。それが生々しく描かれているのがよい。うますぎて、男性読者を「女とはかくも欲張りで恐ろしき生き物」などと脅かすのではないかと、危惧してしまうほどである。
 小道具に使われる、おいしそうな料理の数々も、口卑しい私の興味を満たしてくれた。さまざまな要素がからみあい、後半部のほつれた糸玉状態まで一気に読ませてしまう。
 恋愛の在りようこそがサスペンスなのだと思わせる、上質のエンタテインメントである。



Book Review
 ひとりの歓喜と絶望。  星野智幸著「毒身温泉」
(講談社) 書評

初出/北海道新聞
2002年8/25刊
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 たとえばこんな場所がある。
 古くて味のあるアパート。棟に囲まれた中庭には熟れたマンゴーがたわわになる木や巨大な欅(けやき)。 ブーゲンビリアが咲き乱れ、ハンモックが風に揺れる。住人たちは「ずっと独身で生きていきたいと思っている」男女ばかりである。 世間が価値をおくところの「家族」という整ったフレーム。いわばそこからはみだした場に属する人々が集う奇妙な空間。本書の舞台だ。 ときどき、誰かが庭にコンロを持ち出し、スペイン・オムレツを焼いたりする、この魅惑的な場所について、思いをめぐらせる。
 好きか嫌いかは別として、誰もが考えずにはいられないはずである。自分が住んでみたらどうだろう、と。読んで字のごとく。 作者は独身者を「毒身」の存在として、その視点を執拗(しつよう)なまでに丹念に描きつける。登場人物たちの「ひとり」または「他者と自分」 に対する心情は、濃く重い液体のよう。彼らの身中をとろとろとめぐり、とめどない。独り身であることの甘く苦い毒が、読んでいるうちにこちらの 血液にも流れこみそうな小説だ。
 登場人物はみな個性的だ。
 誰もが圧倒的に孤立しており、かなしみとおかしみにあふれている。 たとえば増田みず子描く小説の人物が透徹した目で外界を眺めつつ、乾いた個の底に埋没しているのに対し、彼らは右往左往する。 同性愛の恋人にふりまわされもする。毒身ゆえの自家中毒をおこし、揺れたり息もたえだえになったりと情けない。そのくせ−ここは星野智幸の描く人物の好きなところだ− どことなくフザけている。苦悩しているようでもフザけて見える。結局、人間は徹底的な単体として生きているようでも、周りとの距離をはからずにいられない動物だ。 そうして生きる様が滑稽(こっけい)に見えるのかもしれない。
 こんな建物の中庭の、マンゴーの樹下で。孤(ひと)りであることの歓喜と絶望をこころゆくまで享受してみたい。 そんなふうに思うのは、私もまた「毒身」をもてあます身ゆえなのか。
 

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