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いまだに覚えてる。 今をさかのぼること約15年前。1986年のことだ。私はそのころ某音楽出版社の編集部につとめていたのだが、ある噂がつたわってきた。 ”クボタトシノブ”というなにやら面白いアーティストが登場する”らしい”、という。ただし、これって音楽メディア業界では、日常茶飯事、とまではいかずとも、そう珍しくはない新人アーティストの枕詞のような、謳い文句のようなもの。日々舞い込んでくる試聴テープの山にうもれて暮らす身としては、そうはいっても実際、音を聴くまでは……などと疑心暗鬼になるスレた編集者根性も備わっていた(かなしいことに)。 しかしそのときは、少し風向きが違った。まだ編集部内だれひとりとしてその実態を知らないにもかかわらず、こぞって試聴テープがくるのを心待ちにしていたのだ。 そこには予感めいたものがあったのだろう。 そしてまず届いたのは、デビュー曲のサンプルではない。なんと、アーティストが一人で作り上げたデモテープ。つまり自己紹介音楽のような内容だという。そのテープには確か名前までついていたと記憶している。 すごいぞテープ。 誰がつけたのか知らないが(まさか本人ではないであろう)ずいぶん適当なネーミングである。”すごいぞ”といってもいったい何がすごいのだ?? ……。と、ここまで前置きが長くなった、が。 その音がほんとうに、すごく新鮮だったことに驚かされた。その時点で彼がやりたい、表現したいことが、最大限にゴージャスに封じ込められた内容。次々にメドレー形式で展開されていく曲の数々。音も、声も、メロディも気持ちよすぎるくらいに気持ちがいい。デビュー前から田原俊彦らに曲を提供している彼の作曲センスだけは先駆け伝わってきていたが、その提供曲も「流星のサドル」もいっしょくたに歌われている。 全部ひっくるめて、それはめくるめく久保田利伸の”トーン”そのものに彩られていた。 続いて手元に届いたデビューアルバム『SHAKE IT PARADISE』で、彼はいきなりブレイクした。 この作品で、すでに久保田は日本の男性ヴォーカルシーンに、新しい形状の石をすこーんと投げ込んでしまったといっていい。その場所を単なるR&Bシーン、と言い切ってしまうには、抵抗がある。強いていえば、この時代にはシーン自体が確立されていなかったのだから。 彼は、影響を受けた音楽として常々ブラックミュージックをあげている。が、彼がデビュー時点でやろうとしたのは、黒人音楽のやきなおしではなく物まねでもなく、あくまでも久保田自身の”音”だった。R&Bを知らない世代に、その「濃く熱い」においを感じさせつつ、彼自身の個性が際立っている。そのバランスの絶妙さが、シーンに新風を吹きこんだ要因だろう。 これまで、日本のシーンにおける”ブラックミュージック”という言葉の周辺には、何やらマニアックな、よくいえば音楽「通」的な、悪くいえば、少々閉鎖的なムードがちらちら漂っていた。 私自身の話をすれば、そこからさらにさかのぼること数年前。花の女子大生時代に「ディープなサザンソウルが好き」とか「オーティス(・レディング)はいいねぇ」などとうっかり口走ったせいで、”じじい”という女子大生には悲しすぎるあだ名を背負わされる羽目になった。それほど、そのシーンには泥臭いイメージがあったのだ。いってしまえばそれこそが、日本におけるR&Bシーンが大衆レベルまで浸透し確立されるのを阻んでいた要因ともいえるのである。 実際、久保田自身、「アマチュアバンド時代はアフロヘアで100%黒人になりたい」時期があったと、苦笑顔で(?)告白している。だが、彼の強みは、その領域におさまりきらなかったところだ。というか、たぶん天性のものだろう。幅広いエンタテイメント性、開放的なキャラクター。 彼は大きな影響を受けてきたブラックミュージック、ワールドミュージックを一度消化した後、自家醸造し、新しい世界を作りだした。その作曲センスと声のよさ、歌のうまさという力強い武器でもって。つまりそれまでの日本のR&B系アーティストに往々にしてみられた「いいのさ、俺たち。このまま高円寺JIROKICHIで月いちライブやってけりゃ」的マニアな世界(いや、実はそれはそれで好きなのだけれど)をよしとしなかったわけである。 彼のデビュー当時のインタビューを読み返してみると、最初からこんなふうに言っている。 「世界に出るんだったら英語をちゃんとマスターして踏み込んでいけばいい」 その言葉どおり、きちんと英語力を蓄えていく一方で、 「日本語で英語のノリと同じノリを出せたらという、そういう意味での使命感は覚えている」。 つまり彼の目標は、日米どちらかだけを対象にしたものでなく、最初から、世界という舞台に出て行くことを考慮していたのだ。ここで、世界=聞くものを問わず受け入れられるもの、と置き換えられる。そんなオープンな精神で、彼はメディアにもフットワーク軽くのりこんでいった。 当時、多くのミュージシャンたちがブラウン管を拒絶するなかで、彼はその親しみやすいキャラクターを惜しみなく披露し、曲だけでなく久保田利伸という存在をアピールしていった。そして3枚目のアルバム『Such A Funky Thang!』でLA録音、それ以降はNY録音と、着々と地固めをしながら作品を作りつづけてきた。その間、音はますます自由になり、R&Bだけでなく、レゲエ、アフロ、カリプソ、すべてのジャンルを屈託なく取り入れながら”久保田くささ”を増していっている。一方で、誰の耳にもせつないバラード「CRY ON YOUR SMILE」等の名曲を次々発表、ブレイクするたびにライブの動員数を着実にふやしていった。ただ、面白かったのは、NYで初めてレコーディングを行う前の彼の発言だ。 「音楽的にすごく自信をつけて帰ってくると思う?」という質問者の問いに対し、 「逆に自信はなくなってくるかもしれない。野心は燃やすかもしれないけど」と彼は答えた。 ああ、こういうこと言えるのっていいなと思った。 自信と野望がときに相反していても認められるその素直さ。それが作品を作りつづけていくうちに一致しはじめ、92年の『Neptune』発表時には、 「ずいぶん自分くさいレコードだと思う」までになった。 思えば、久保田利伸の音の歴史は、より自分の内面、彼自身へと近づいていく過程そのものなのかもしれない。そして、そのことこそが、形式でも擬態でもない、ほんもののソウルミュージック、魂の音楽なのだと思ってしまう。人間の核、という意味合いにおいて。 彼がリスナーだけでなく、日本のミュージシャンたちからもリスペクトを集めているゆえんは、この彼が備えるところの音楽の自家醸造機能、にあるのではないだろうか。 ファンキーさ、ソウルフル、といった、彼のお好みのフィルターで漉された自分本来の音楽。うた。 今の日本のR&Bシーンが元気で楽しいのは、その過程を知るアーティストが増えてきたせいにちがいない。とすると、やはりいまだ自由に世界をまたいで、自己の音楽を追求しつづけている久保田利伸の功績というのは大きいと、しみじみ思わざるをえないのだ。 |
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