New York 
Essay
 ストリートから見あげた
ニューヨーク。
   初出/キャセイ・パシフィック航空
 機内誌 Discovery
1996年6月号

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歩かされる街、ニューヨーク

 マンハッタンは人を歩かせる街だと誰もが言う。バスも地下鉄も几帳面に縦横の碁盤目状態に走っており、それは便利なのだが、ちょっと街を斜めに横切りたいときなど、
「うーん、乗り換えのバスを待っているぐらいなら歩いた方が早いもんね」
 と、せっかちなニューヨーカーは誰もが思ってしまうわけだ。流行りのレストランの前で数十分待つことは平気でも、交差点で信号を待つ三分間はゆるせない。そこで信号など無視して、さっさとストリートを渡ってしまう。それがニューヨーカーという人種である。
 私がまだこの街の住人でなく旅行者だったときも、知らず知らずのうちに街に「歩かされて」いた。次から次へとブロックの表情が変わるので、ウサギを追うアリスのようにそれを追いかけるうち、スニーカーの足元はくたくたに疲れてホテルに帰り着く。たぶん、ショーウィンドウや風変わりな様相の人々を眺めている間と、写真を撮る間以外、ひとときも立ち止まらなかったではないだろうか。事実、今でも私を含めた友人の何人かは、「ニューヨークに来てからどうも足の調子が悪いのよねぇ」などと、年寄りじみたグチをこぼしあっているほどである。
 それが、その年だけは違った。
 初めてマンハッタンに移り住んだ年の春から一年近くの間。私は路上にいたのだった。横切るのでも歩き去るのでもなく。路上に「座って」いたのだ。
 ストリートから見あげるニューヨークの街や人々は、それまで目にしていた街の顔とは、すこしだけ違って映った。
 
ひょんなことから、街に座って

 マンハッタンでもっともファッショナブルでアーティスティックなブロックと当時言われていたソーホーに私が座り込んだのは、ほんの偶然と、そして若気のなせる(というほど若くないのだが、この街に対しては若かった、という意味で)ワザだった。ソーホーの路上で多くのストリート・アーティストたちが自分の作品を展示していた頃である。
 手づくりの美しいジュエリーや画家たちのタブロー、彫刻家のオブジェ。自分でつくったものを路上で人に披露するアーティストたちが、私にはとてもうらやましく思えた。私は、まだまだ下手な英語で、顔見知りになったアーティストに何の気なしに、こう呟いたのだった。
「いいなぁ、私もやってみたいなぁ」
 すると彼やその仲間たちは、いとも簡単に言ってのけた。
「だったらやればいいじゃない。僕たちと一緒にさ。週末、絵や手づくり品を持っておいでよ」
 次の週末。起きぬけでぼうっとしている私のアパートメントの電話が鳴った。
「なにしてんだよ、早くおいでよ。場所とっといてあげてるんだから」
 プリンス通りに、風が吹けば飛びそうな折りたたみテーブルと、子供用の椅子を持って現れた私を「なんてちっちゃな椅子なんだ!」と、みなが笑った。確かにその椅子は小さすぎて
、背の低い私が座ると、ほとんど道端にうずくまっているように見えたのだ。
 手づくりの品を手に取り、好きだと言ってくれ、お金を出して家に持ち帰ってくれる人がいる。そのことが途方もなく嬉しかった。何かをつくっては、路上に持っていって売る。そんな毎日は、学園祭のようだった。同時に、いつもより低い視線で固定された場所から見るものが、私には新鮮でたまらなかった。おしゃれを先取りしているソーホーの人々の間で、その年サボ・シューズが大流行したのを発見したのも、人よりかなり早かったのではないだろうか。何しろ、一日中行き交う人々の、文字通り、ストリート・ファッションを眺めているのだから。アニエスb.、NANA、ストゥーシーズ。日本のファッション雑誌を飾っていたブティックのウィンドウも、暇潰しにじっくり研究することができた。
 
人もモノもひしめくストリート

 市の政策で、小売業ライセンスを持たない者の路上商売に対する取り締まりが厳しくなったのは、私が路上に慣れはじめてしばらくした頃だ。そこで、アメリカ人の友人に誘われ、ブロードウェイと西四丁目のタワーレコードの横にあるストリート・マーケットに参加するようになった。もともとストリート・フェアやのみの市には目のない私。その日の売り上げで、隣の店に売っているTシャツやらを買ってしまうのだから、ちっとも儲からないのである。友人になった革製品を売るセネガル人の男の子も、ちょっとした隙に周りの店でGAPの安売りジーンズなどを買い込み、にこにこしている。知り合いになった連中はみな、そんな呑気な調子であった。本当はその背景に生活への不安や畏れが隠されていたのだとしても、誰もが自分の居場所である路上を、愉しもうと決めていたのかも知れない。ポーランドや南米、様々な国から色々な人々がこの街を訪れ、いろんなものを売っている。ひとつの場所にひしめく人種やモノに出逢えるストリート・マーケットやのみの市は、ニューヨークの中でももっとも私の気に入りの場所だ。
 今、自分がそこに混じり、「売る」側になっていることが、なんだか不思議に感慨深かった。
 このタワーレコード横のマーケットやソーホーのウースター通りのスプリング通りの角にたつストリート・マーケットは、アンティークではなく、ファッション雑貨中心である。品揃えも流行を意識したものが多い。二十〜三十ドルで買える服は遊び心に溢れており、そのままクラブ・ファッションとして通用するほど洒落たものも多い。遠めに見ると、サテンや花柄の派手な服がディスプレスされている様は、とても鮮やかだ。コンクリートの街並に華を添えている。
 アンティーク市なら、二十六丁目と六番街の角のアネックス・マーケット。アップタウンなら日曜に行われる七十七丁目とコロンバス通りの角がいい。今まで所狭しと並んだ物ばかり見ていた私は、路上に座ることを体験してから、売る側の人々にも関心を持つようになった。
 アンティーク好きが嵩じて、ディーラーなった人。「これが売れなきゃ家賃が払えないの」と真剣な面持ちのパンク少女。陽気なカリビアンの知り合いは、自作のモダンなジュエリーを売りながら、綺麗な女の子が来ると途端に口説きはじめるというワザを持っていたっけ。
 冬のとりわけ寒さが厳しい日には、外で震えながら売ってる人たちのつらさも身にしみる。何しろ、私自身、寒さや暑さといった自然上の理由で、路上商売からリタイヤしてしまったクチなのだから、情けない。順番で互いの品を見張りながら買いに行った熱いスープを啜り、足踏みして寒さをこらえたあの日々。今では、なんだか感傷の中の風景画のように、懐かしく浮かび上がってくるのだった。
 
そしてふたたび、立ち止まる

 路上の食べ物屋台も、だから身近なもののひとつである。ソーホーの路上にいた頃、近くでローステッド・ナッツを売っていた青年は、ヘヴィメタ・ミュージシャン志望だった。彼は「オマケだよ」と片目をつぶり、ハニーで甘く煎ったカシューナッツをいつでも袋に山盛り入れてくれた。中近東のスブラキやジャイロなど、羊肉のピタ・サンドイッチをはじめて食べたときも、路上フードながらそのボリュームと味に感動したものだ。
 路上調理用のライセンスを取り、屋台を市から借り受ける。そんなシステムも、遠い異国から来てこの国で一からビジネスをおこした彼らに聞いて、はじめて知ったことだった。もしかして路上がいちばん、ニューヨークで異邦人を受け入れてくれる場所かも知れない。─家のない人々もふくめて。
 プリンス通りでかつて私を受け入れてくれたアーティストの友人の何人かは、ニューヨーク市と今も路上でたたかっている。絵や作品をディスプレイしていた彼らが警官に逮捕され、作品を没収されたのをきっかけに、
「ストップ・アレスティング・アーティスト─アーティストを逮捕しないでくれ。僕らの作品を取り上げないで」
 というスローガンを掲げ、抗議のキャンペーンを行っているのだ。許可なく人からお金を取る商売は違法だとしても、せめて路上で作品を展示する表現の自由を勝ち取りたい。それが彼らの目的だ。けれど今は、街角に貼られたそのポスターも無残にはがされている。
 私はすこしうしろめたい気持ちで、その前を通りすぎる。昔のように、すこし早足で。
 座り込み見上げるのでなく、通りすぎ、歩き去る。それでもじつにしばしば、プリンス通りでは立ち止まる。あの頃知り合ったいくつもの馴染みの顔に、「調子はどう?」と挨拶をかわすためにである。

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